聖書を読んで、その中にある命に触れる

 
 聖書は驚くべき書です。聖書の観念と強調点は、しばしばわたしたちが考え得ることを越えており、わたしたちの天然の観念に反するものでさえあります。ですから、わたしたちが聖書に触れる時はいつでも、完全に自分の観念を捨てることを学ばなければなりません。聖書を読む時、わたしたちは内なる最も深いところから主に言う必要があります、「主よ、わたしの観念を取り除いてください。あなたの御言の中にある純粋な光を見て、あなたの中で純粋な感覚に触れることができるように、わたしのおおいを取り去ってください」。
 
 わたしたちの多くは、何度も新約聖書を読みました。わたしは聖書を読む際に、あなたが聖書から多くの教えを取り上げたことと思います。しかし、あなたがそれを綿密に調べるなら、その大部分があなたの思いの中にすでに存在していた観念であるということを発見するでしょう。わたしたちは、もしその観念がすでにあなたの思いの中にあったものでなければ、あなたは聖書を読んでも何の観念も引き出せなかったであろうとさえ言うことができます。
 
 わたしたちが聖書を読む時、多くの場合、まるでそれが倫理道徳の本であるかのように読んでしまうのはなぜでしょうか?それは倫理道徳がわたしたちの観念にあるからです。なぜ聖書を読む時、わたしたちが見ることができるものはすべて、わたしたちは主に仕えなければならない、主のために労苦しなければならない、主のために熱心でなければならない、主のためにこの事、あの事をしなければならない、ということなのでしょうか?それは、こうした観念がすでにわたしたちの中に存在しているからです。したがって、わたしたちが聖書を読む時、これらの事を見るのは簡単なのです。
 
 わたしはこう言いたいと思います。確かに、こうしたすべての倫理的な観念、道徳的な観念、例えば、主に奉仕し、主のために労苦するという観念は、聖書の中に存在しています。それらのものは聖書に見いだされます。しかし、それは聖書の中にある命の結果です。これは花瓶にいけてある花にたとえられます。花には、その目に見える姿、形、色があります。しかし、花の外側の形と色は、単に外面的なものではありません。それは花の内側の命の成長と表現です。あらゆる種類の命には、その命の本質と力と形があります。この命を発育させるなら、その目に見える形と姿が現わされるでしょう。したがって、外側の姿は、内側の命の表現です。
 
 今日わたしたちが聖書を読む時、外側の姿と形を見ることはとても容易です。しかし、内側の命に触れるのは容易ではありません。これは、わたしたちが聖書を読む際の根本的な難しさです。では、どのようにして聖書の内側にある命を見るのでしょうか?簡単に言えば、それは食べることの中にあります。

子供たちのパンである主は、人が食べるためである

 
 例証を使ってみましょう。マタイによる福音書第十五章は、主がユダヤの地を去って、異邦人地区のツロとシドンに退かれたことについて語ります。すると、一人のカナン人の女が出てきて、叫んで言いました、「主よ、ダビデの子よ、わたしをあわれんでください!娘が悪鬼にとりつかれて、ひどく苦しんでいます」(二二節)。彼女は異邦人の女であったにもかかわらず、ユダヤ教の伝統的な観念にしたがって、主イエスに「ダビデの子」と呼びかけました。しかし、主は答えられました、「子供たちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくない」(二六節)。女は、「ダビデの子」という宗教的な称号を使いました。イエスの答えはパンに関するものでした。彼らが互いに言った言葉には、何と大きな違いがあることでしょう!
 
 王の子孫であり、王位の継承者であるダビデの子は、偉大な人でした。人の宗教的な観念では、キリストは信じられないほど偉大な人であり、また王家の相続者であると考えられました。しかし、イエスの答えは、彼は子供たちのパンであるというものでした。それでは、あなたがたにお尋ねしますが、「ダビデの子と子供たちでは、どちらが偉大ですか?」。だれでもダビデの子のほうが偉大であることに同意するでしょう。それでは、別の質問をしましょう、「子供たちと子供たちのパンでは、どちらが偉大ですか?」。言うまでもなく、子供たちは子供たちのパンより偉大です。そこで、このことを考えてください、「あなたと主イエスでは、どちらが偉大ですか?」。あなたは大胆に、「わたしのほうが偉大です。なぜなら、わたしは子供であり、彼はパンであるからです」と言うべきです。しかし、あなたは宗教の伝統的観念の影響のために、自分のほうが偉大であるとはあえて明言しないでしょう。わたしたちが主より偉大であると言うのは、主を冒とくすることではなく、主を真に認識することなのです。あなたは心から言うことができます、「主よ、わたしはあなたに感謝し、あなたを賛美します!今日、あなたはわたしの食べ物になりました。 食べる人は、食べ物より必ず偉大です。主よ、あなたはわたしが食べることのできる小さな食べ物になられました!」
 
 主イエスがツロとシドンに退かれた時、あわれで低く卑しいカナン人の女が現れました。彼女は、主イエスをダビデの子、王家の子孫であると考えました。しかし、主は賢明でした。彼の応答も、単純ですが深遠で、すばらしいものでした。彼は言われました、「子どもたちのパンを取り上げて、子犬に投げてやるのはよくない」。彼は、このことをカナン人の女に知って欲しかったのです。「もしわたしがダビデの子であったなら、わたしはあなたの所に来なかったでしょう。ツロとシドン以外では、ダビデの子は王座に座っているべきです。あなたは、わたしが子供たちのパンであるということを知らなければなりません。あなたはまた自分の地位を知らなければなりません。もしわたしがダビデの子であったなら、あなたにはわたしに向かって叫ぶ資格はなかったでしょう。わたしが子供たちのパンであったとしても、あなたにはやはりわたしを食べる資格がなかったでしょう。あなたは異邦人の犬です。あなたは十分にはわたしを知りませんし、あなた自身のことも正しく知りません」。
 
 主は本当に賢かったのです。そして彼の答えの意味は本当に深遠でした。しかし、その日、聖霊はカナン人の女の中で働き、彼女の理解が主の言葉を聞いた直後に開かれるようにしました。 彼女は議論もせず、怒りもしませんでした。まるで彼女はこう言ったかのようです、「主よ、あなたの言われる通りです。あなたは子供たちのパンです。そして、わたしは異教徒の犬です。しかし、あなたは犬にさえ分があることを知らなければなりません。犬の分は、食卓の上にではなく食卓の下にあります。犬は食卓でパンを食べることができません。しかし、食卓の下のパンくずは犬の分け前であるべきではありませんか?」。このカナン人の女の返答も、また非常に意味がありました。それは次のように言うのと等しいです、「主よ、たとえあなたが子供たちのパンであるとしても、あなたの手に負えない子供たちが食卓からあなたを落としたのですから、パンはもう食卓の上にないということを知らなければなりません。異教徒の犬として、わたしは食卓の下にいます。しかし、あなたも食卓の下にいます。わたしはツロとシドンにいます。しかし、あなたもエルサレムにはおられません。ですから、今、あなたはわたしの分です」。

主はわたしたちの中に入れるほど小さくなられた

 
 兄弟姉妹たち、あなたがたはこの事例の意義を見なければなりません。人は必ず宗教的な観念で主イエスを扱い、彼を偉大な人と考えます。しかし、主は、ご自分はそうでないとはっきり示しておられます。わたしたちは、宗教的な観念によらず、御言の啓示によって主を認識しなければなりません。今日、全世界はキリストをカナン人の女が見たのと同じように見ています。ですから、ある人たちはキリストが宗教の教師であったと言い、他の人たちはキリストが宗教の創設者であったと言い、また他の人たちはキリストが偉大な人物であったと言います。これらは信じない異邦人が言うことです。ですからクリスチャンの目に、キリストはもっと偉大で、もっと高いのです。わたしは、主イエスが偉大でなく高くもないと言っているのではありません。しかし、 あなたはこの観念が人の宗教観念によるものであることを認識しなければなりません。人の創造以来、神はいつもご自身を人に啓示して、ご自身を命の木として人の前に置かれました。わたしたちはみな知っているように、果樹は巨大な木ではありません。例えば、りんごの木もぶどうの木も、そんなに高くありません。しかし、柱に使われるモミやイトスギなどの木は、非常に高いです。もし果樹が数百メートルの高さで、そこに実がなっているなら、どのようにしてそんなに高い所にある実を取って食べることができるでしょうか?したがって、わたしは、聖書に示されている命の木は、小さな低い木であったに違いないと堅く信じています。主イエスは「わたしはまことのぶどうの木である」と宣言されました。ぶどうの木は高い木ではありません。これが示唆するように、命の木はあまり高くなかったはずです。
 
 ハレルヤ!神が初めて人に現れた時、彼は偉大な方として現れたのではなく、むしろ人の前に置かれた木として現れました!イエスが来られた時、人は彼をはなはだ偉大な宗教家であると考えました。しかし、彼は言われました、「わたしは命のパンである」。パンは、木よりも小さいです。神は、いつも小さな方として人の前にご自身を置かれました。彼はご自身を決して偉大な方として現されませんでした。なぜでしょうか?それは、小さな者であってこそ、彼は人の中に入ることができるからです。わたしたちが彼を内側に取り入れる時、彼は喜ばれます。
 
 あなたがたの多くは、パウロの手紙を非常によく知っています。あなたがたにお尋ねします、「パウロの十四書簡の中で、何回彼は頭をたれて、神の御前にひれ伏したと書いているでしょうか?」。ほんの数回だけです。しかし、彼は「キリストがわたしの中にいる」、「キリストがあなたの中にいる」という言葉を繰り返して言いました。例えば、彼はこのように言いました、「生きているのはもはやわたしではありません。キリストがわたしの中に生きておられるのです」。「神が、御子を喜んでわたしの中に啓示し」。「わたしの子供たちよ、キリストがあなたがたの内に形づくられるまで、わたしはあなたがたのために、再び産みの苦しみをします」。「それはあなたがたの内にいますキリストであり、栄光の望みです」。「キリストが……あなたがたの心の中に、ご自身のホームを造ることができますように」(ガラテヤ二・二〇一・十五-十六、四・十九コロサイ一・二七エペソ三・十七)。あなたの中に何かが入る時、あなたとそのものとは、どちらが大きいですか?ハレルヤ、あなたのほうが大きいのです!あなたが主を賛美する時、あなたは本当に彼に言うべきです、「主よ、わたしはあなたを賛美します。わたしはあなたよりも大きいです!おお、主よ、あなたはわたしよりも小さいです!」。もしあなたがこのように主を賛美する勇気がないなら、それはあなたがまだ宗教観念に影響されているということの証明です。朝、大胆に主に向かって言ってみてください、「ハレルヤ!わたしは偉大です。そして、あなたは小さいです」。もしこうするなら、わたしはあなたの霊が喜んで飛び跳ねることを保証します。それから主は言われるでしょう、「ここにわたしを完全に知っている人がいる」。
 
 どうか誤解しないで下さい。わたしは、主イエスのパースンがあなたより小さいとは言っていません。彼ご自身は、多くの場合あなたより偉大で高いのです。しかし、あなたが彼を食べて、享受することができるために、彼は本当に小さなイエスになられたのです。さらに、主イエスがエルサレムを離れて、ツロとシドンに退かれた時、彼は食卓の下に落ちたパンくずにさえなりました。食卓の上にあるパンは、比較的大きいです。食卓の下のパンくずは、本当に小さいです。 「おお、イエスよ、わたしはあなたを『パンくず』として賛美します。今日、あなたは完全なままのイエスではありません。あなたは、『パンくず』であるイエスです!」。
 
 およそ十五年前、ここで長期の訓練をしていた時、わたしは聖書をくまなく調べ、最善を尽くして主のすべての称号を見いだそうとしました。彼は、キリスト、イエス、インマヌェル、神の御子などです。わたしたちは、およそ二百七十の称号を見つけました。しかし、わたしはその称号に「パンくず」を含めませんでした。今朝、わたしはもう一つ称号を加えたいと思います。主イエスは、パンくずとも呼ばれています。主イエスは、命のパンであるだけでなく、「パンくず」でもあります。
 
 繰り返しますが、イエスはご自身では偉大ですが、わたしたちが彼を食べ、彼を享受することができるように、彼は進んでへりくだり、奴隷の形を取られました。天然の観念では、人は彼を伝統的な敬称である「ダビデの子」と呼びました。しかし、主イエスは言われました、「わたしは子供たちのパンであり、パンくずでさえあります。わたしは、食卓の上のパンくずではなく、むしろ食卓の下のパンくずです」。ああ、主イエスは、あなたがいる場所に、墮落した状態、ツロとシドンの地におられます。ツロとシドンは尊敬すべき場所ではありませんでしたが、主はその場所に退かれました。彼は聖であられるのに、彼はご自身を低くし、卑しくなってわたしたちと共にいて、不義な罪人の所に来られました。偉大な神である彼は、低い人に近づかれたのです。

単にわたしたちのため何かを主にしていただくことを求めるのでなく、主を食べる

 
 カナン人の女は来て、何かを主にしていただくことを求めました。彼女は、病気の娘をいやしていただくよう主に懇願しました。しかし、主の答えには、彼が何かしてあげるというきざしすらありませんでした。主は、ご自分が彼女に食べさせるパンであると言われました。このことによって、わたしたちは、主イエスがわたしたちのために何もする必要がないということがわかります。その代わりに、わたしたちは主イエスを食べる必要があります。姉妹たち、あなたの夫は病気ですか?まず主に病気のいやしを求めないでください。あなたの夫が病気なのは、あなたが主イエスを食べるためです。主イエスを内側に取り入れてください。そうすれば、あなたの夫の病気は治るでしょう。あなたは、子供たちの反抗に悩んでいますか?あなたは、主が子供たちを従順にする奇跡を行ってくださるようにいつも祈っています。しかし、祈れば祈るほど、あなたの祈りには効果がなくなります。あなたが祈れば祈るほど、子供たちはもっと反抗します。今、あなたはこの秘訣を学ばなければなりません。すなわち、あなたは主をもっと多く食べなければなりません。十分に主を食べてください。そうすれば、あなたの子供はいやされます。
 
 あなたに必要がある時はいつでも、それはあなたが主イエスを食べる必要があるという証明です。あなたは失業しましたか?良い仕事のために主に祈らないでください。あなたに必要なのは、ただ主イエスを食べることです。そうすれば、仕事が来るでしょう。未信者がこうした言葉を聞く時、彼らはわたしが馬鹿げたことを話していると思うでしょう。しかし、経験豊かな人は、わたしたちが主を食べることから仕事が来るということを知っています。主イエスに、あなたの外側で何かをするように求めないでください。むしろ、主イエスを食べて、彼を自分の存在に取り入れてください。
 
 兄弟姉妹、わたしたちはみな、主イエスが本当にわたしたちの食べ物になられたということを見ました。わたしたちは自分の観念を変える必要があります。すべて各地の長老たちは忠実に召会を管理しています。彼らは召会を心に掛け、召会が前進することを熱心に望んでいます。召会のために心配するのは、良いことですが、効果はありません。あなたが良く召会を顧みることができるように、主に助けを求めないでください。それよりも、あなたは転機して主イエスを少し食べなければなりません。あなたが主イエスをもっと多く食べれば、召会は生かされます。
 
 これが新約聖書の中心的な視点です。主が来られたのは、わたしたちのために働くためではなく、わたしたちに食べさせるためです。主に雄牛のように地を耕してもらうように求めることは、間違っています。また自分を美しくするために主の毛を刈ることも、間違っています。マタイによる福音書第十五章で、カナン人の女が、主イエスに病気の娘をいやしてくださるように求めた時、主が答えられたのは要するにこういうことです、「わたしに、あなたのために地を耕す雄牛であることを求めないでください。わたしは、あなたが食べるためのパンくずです!娘が病気であってもなくても、ただわたしを食べなさい!わたしを食べなさい。そうすれば、あなたの娘は治ります!」。
 
 兄弟姉妹たち、あなたはイエスを食べないので、あなたの家庭生活には問題があります。妻がイエスを食べる時、夫は良くなります。夫がイエスを食べる時、妻は良くなります。子供たちがイエスを食べる時、親はもう問題ではありません。親が主イエスを食べる時、子供たちは転機します。あなたは、主イエスを自分の中に取り入れて、彼にあなたの命、あなたの食べ物、あなたのすべてとなっていただく必要があります。そうすれば、あなたの状況は変わります。実際に、わたしたちは環境が良いか悪いかを気にしません。わたしたちは、主を食べて、主を享受したいと思うだけです。主は、あなたが食べるためです!あなたはまず食卓の下で食べます。それからしばらくすると、あなたは食卓の上にあるものを食べます。異邦人の犬がキリストを食べる時、彼らは神の子供になります。子供たちがもっと多くキリストを食べる時、彼らは宝石になります。啓示録第二章で、主はペルガモに在る召会の使者に、「勝利を得る者には、隠されたマナを与えよう。また白い石を与えよう」(十七節)と言われました。白い石は勝利者です。隠されたマナを食べる人は、最後に神の建造のための白い石になります。

聖書の思想は、食べることである

 
 放蕩息子が家に帰った時、外側では、彼は父が用意した最上の衣を着ましたが、内側では彼はまだ空腹でした。そこで父は言いました、「また肥えた子牛を引いて来て、ほふりなさい。食べて楽しもうではないか」(ルカ十五・二三)。これは、新約聖書の思想であり、そして聖書全体の思想です。
 
 主イエスはまた、福音の宣べ伝えは、盛大な晩餐を設けた人にたとえられると言われました。 福音を宣べ伝える時、わたしたちはいつも人に悔い改めるように言い、人の罪深さについて語ります。しかし、このたとえで主イエスは言われました、「客を招きに行きなさい!晩餐は用意ができました。おいでください。すっかり用意ができました!」。来て何をするのですか?来て食べるのです!未信者が罪を告白して、悔い改めることができないのではないかと心配しないでください。主を食べる時、彼らは歓喜するでしょう。その後、自分が罪深いことに気づくと、彼らは泣くでしょう。そのように泣いて、罪を告白するほうが、あなたの説得を聞いて何かをするよりも良いのです。したがって、福音を人に宣べ伝える時、わたしたちは彼らに食べるよう勧めなければなりません。人は、主を食べ、主を取り入れる必要があります。
 
 パウロは、彼の書簡の中で、信者たちを乳で養ったと言いました。ぺテロも、生まれたばかりの赤子のように、純粋な言葉の乳を切に慕い求めなさいと言いました。乳は、ただ飲むためではなく、食べるためでもあります。乳は養うための食べ物です。したがって、聖書の思想は食べることです!聖書は、食べることに関する書です!食べてください!食べてください!わたしたちは、主イエスを食べる必要があります!
本記事はJGW日本福音書房出版のウイットネス・リー著 「主を食べる」第二章より抜粋されています。
 
 

食べる方法 

 
 わたしたちが食物として食べる主は、その霊です。それでは、わたしたちは彼を食べるためにどの器官を使いますか?わたしたちは霊を使って主を食べます。主は霊です。ですから、わたしたちは彼を食べるために霊を使わなければなりません。わたしたちは、どのように主を食べるのでしょうか?「おお、主よ!おお、主よ!」と呼び求めることによってです。主を呼び求めることは、彼を食べることです。聖書は、主が食物であること、そして彼を食べなければならないことを、はっきりわたしたちに示しています。その霊として、彼は食べ物です。わたしたちが彼を食べる器官も、また霊です。さらに、彼を食べる方法は、主の御名を呼び求めることです。 主を呼び求めることは、主を食べることです。
 
 ある人は、わたしたちが呼び求めたり、叫んだりしたら、日曜礼拝をしているように見えないと言うかもしれません。呼び求めたり、叫んだりすることは、絶対に正しいです。わたしたちは、彼らの言ういわゆる「日曜礼拝」を顧みません。わたしたちは、主を食べるためにここに来ているのです。どのように食べますか?主を呼び求めることによってです。あなたは、他の多くの集まりでは上品であることができますが、食べる時にはそうすることができません。主の御名を呼び求めることは、上品には思われないでしょう。しかし、わたしは自分でそれを味わったので、それが確かに甘いということを知っています。主に感謝し賛美します!これが今日の主の回復です。主は、何を回復しておられるのでしょうか?主を食べることです!ハレルヤ!
本記事はJGW日本福音書房出版のウイットネス・リー著 「主を食べる」第一章より抜粋されています。